2009年5月24日() 放送

太宰治「津軽」の旅
〜後編〜

 作家・太宰治は1909年6月19日、青森県北津軽郡金木村に生まれました。今年は生誕100年の節目にあたります。太宰は数々の名作を書き、今なお多くの読者を獲得しています。中でも小説「津軽」は楽しく味わい深い一冊です。今日の活彩あおもりは先週に引き続き、小説「津軽」をベースにして太宰文学の世界を紹介します。

 戦時中の昭和19年5月、東京三鷹に住んでいた太宰は故郷の津軽に旅に出ます。太宰治「津軽」の旅は蟹田から竜飛をたどったあと、生家のある金木に着きます。

 斜陽館近くの物産館には太宰にまつわるグッズがたくさん売られています。「走れメロス」や「斜陽」などのTシャツやトートバッグ、「生まれてすみません」という言葉をアレンジしたせんべい、レターセット、ブック型の入れ物に入ったお酒、太宰最中に太宰もち、小説「津軽」のクッキーなどがあります。

 斜陽館の近くに新座敷と呼ばれている建物があります。ここは太宰が敗戦直前から戦後にかけて疎開していた建物です。ここで太宰は「パンドラのはこ」「冬の花火」「トカトントン」など重要な作品をたくさん書いています。この家で1年4か月、太宰は妻・美知子さんと幼い子どもたちと暮らしました。

 太宰は津軽各地から見た岩木山の姿について書いています。
 「弘前から見るといかにも重くどっしりして、岩木山はやはり弘前のものかもしれないと思う一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿も忘れられなかった。」

 金木をあとにした太宰は婿養子であった父の実家がある木造を訪れます。
 「木造は、コモヒの町である。」と太宰は書きます。いわゆる、コミセのことです。
 借金に来たのではないかと思われはしないかなどと、父の実家に入ることをためらっていた太宰ですが、入ってゆくと大歓迎を受けます。そしてその家の間取りが金木の家とよく似ていることに気付き、この家を出て金木に家を建てた今は亡き父の心に触れたような気持ちになるのでした。

 さらに太宰は幼い頃、母代わりに育ててくれた叔母の住む五所川原に向います。叔母が留守だったこともあり、東京での出来事で何かと世話になっている中畑さんの家に足を向けます。そして中畑さんの娘、けいちゃんと岩木川を眺めに行きます。

 小説「津軽」の旅は旧小泊村で終わります。太宰は幼いころ、子守のタケに育てられます。そのタケに一目会いたくて、太宰は小泊を訪ねるのです。

 太宰はタケの家を訪ねますが、留守で誰もいません。その日は国民学校で運動会が行われており、村中の人が運動場に集まっていたのです。にぎやかな祭礼のような光景がそこにありました。太宰はなかなかタケを探し出すことができません。やがて太宰はやっとのことでタケと再会します。タケは太宰を隣にすわらせて運動会を黙って眺めています。
 「けれども、私にはなんの不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。」

 やがてタケはすぐそばの竜神様に太宰を誘います。そこでタケはせきを切ったように太宰に会いたかったという思いを語ります。
 「私はたけの、そのように強くて無遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私はたけに似ているのだと思った。」
 そうして次の言葉で小説「津軽」はしめくくられるのです。「さらば読者よ、命あらば他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。」

 2週にわたってお送りした太宰治「津軽」の旅。紹介できなかった箇所もたくさんありますが、原作にはユーモアあふれる名文がぎっしり詰まっています。皆さんも文庫本をバッグに入れて、小さな旅に出かけてみませんか。太宰治が生まれて百年の歳月がめぐり、津軽は若葉が美しい初夏を迎えようとしています。


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