2009年5月17日(
日
) 放送
太宰治「津軽」の旅
〜前編〜
作家・太宰治は1909年6月19日、青森県北津軽郡金木村に生まれ、今年は生誕100年の節目にあたります。太宰は数々の名作を書き、今なお多くの読者に読まれ続けています。中でも小説「津軽」は楽しく味わい深い一冊です。今日の活彩あおもりは小説「津軽」をベースにして太宰文学と青森県の魅力を紹介します。
小説「津軽」は戦時中の昭和19年5月から6月にかけて、当時東京三鷹に住んでいた太宰が故郷の津軽を旅行したことを題材にした作品です。
津軽藩の城下町、弘前。太宰は官立弘前高校生として多感な青春時代を過ごしました。初々しい少年はたちまち芸術や政治の嵐にもまれていきました。社会主義運動に共鳴する一方で、芸者との恋もありました。そうした中で太宰は小説を書き始めていました。また太宰は義太夫にこりました。代表的な義太夫の語りを一通り覚えたほどの熱の入れようでした。
序編で主だった町をスケッチした後、太宰は小説「津軽」の旅を外ヶ浜街道をたどるところから始めました。旧制・青森中学からの友人・N君の住む蟹田を訪れて観瀾山に登り、蟹田の町について書き記しています。
「この蟹田あたりの海は、ひどく温和でそうして水の色も淡く、塩分も薄いように感ぜられ、磯の香さえほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似ている」
観瀾山には「かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった」という佐藤春夫の筆による文学碑があります。
太宰はN君の案内でバスに乗って外が浜街道を北上し、今別では本覚寺を訪れます。
N君は寺のおかみさんに熱っぽく質問。情熱的なのはよいのですが、江戸時代の有名な住職・貞伝和尚を「テイザン和尚」と言いまちがえたりして太宰をあきれさせたりします。
太宰とN君は三厩にたどりつき、義経寺を訪ねます。
「きっと、鎌倉時代によそから流れてきた不良青年の二人組が、それがしは九郎判官、これなる髭男は武蔵坊弁慶、なんて言って、田舎娘をたぶらかして歩いたのに違いない」。そんなふうに太宰は書いて「この辺には、美人が多いね」とつぶやき「まさか、いま、義経だと言って名乗ったって、信じないだろうしね」と苦笑しています。
そのまま太宰たちは海辺の道を強くなり始めた風に逆らい、帽子をふきとばされそうになり、波のしぶきをあびながら歩き続け、竜飛にたどりつきます。
2人は小ぎれいで普請も立派で上品なおばあさんのいる旅館に入り、酒をたらふく飲みます。そしてあくる朝、童女の手まり歌を聞くのです。
「本州の北端でこのような美しい発音の爽やかな歌を聞こうとは思わなかった。希望に満ちた曙光に似たものを、その可憐な童女の歌声に感じて、私はたまらない気持であった。」
太宰治「津軽」の旅には実家のある金木に滞在した様子も描かれています。太宰の生家は西北津軽きっての豊かな家で、その建物は今、斜陽館として公開されています。
小説「津軽」で太宰は津軽鉄道に乗り、芦野公園駅でかいま見たエピソードを描いています。芦野公園には太宰の友人であった阿部合成が制作した文学碑があります。
戦時中に書かれた「津軽」はユーモアと故里への愛にあふれており、戦時下で殺伐としがちな人々の心を癒し、その後60年以上もロングセラーを続ける作品となりました。